谷口雅春先生の著書「生命の実相」や「新しい結婚」「光明道中記」などでは、育児の具体的な方法についても触れられています。
たとえば「光明道中記」の3月22日の項には「寝小便の習慣は、嬰児の最初の用便の訴えを聞き流して、おむつの湿った感覚を不快と感じない程慣れさせて了ったところに起因する」として、赤ん坊をトイレで支え、「シー」という言葉の力で排尿を誘導するやり方が示されています。
このやり方は今、「おむつなし育児」(おむつを使わないのではなく、極力トイレやおまるでさせるという意味)やelimination communicationといった名前でしばしば取り上げられているやり方と似ています。「おむつなし育児」は震災で紙おむつが不足したことで、メディアなどでも注目されていました。
私は出産より以前にこの本を読んでいて、子供が生まれたらぜひこのやり方で子供を育てよう!と思っていました。今思えば中途半端に理解している部分もあったのですが、長男が生まれて3か月にも満たないうちに張り切っておまるを買ったものです。
実際にはバケツでもなんでも使えばいいのですが、そこは応用がきかない若葉マークの母親。
心配なので首が据ってからにしようと思っていたら、首据わりが遅れに遅れて5か月に。
さらに買った後でまだ体が小さくておまるをまたぐことができないことに気づいたうえ、子供を触るのもどこかおっかなびっくりで、結局トイレやおまるでさせることがほとんできないまま、時がどんどん過ぎていきました。
ずっと布おむつを使っていましたが、生後7か月くらいのときにおしりがかぶれ、小児科の先生に勧められるままに紙おむつに変更。
そのまま今に至っています。
一方、下の子は時々おまるでさせていましたが、年子のきょうだいをみる日々に追われ、結局その回数が次第に減っていきました。
用便を催してくるのを「感じる、あるいは観じればタイミングがわかる」と聞いたのですが、今に至り、全然わかりません。
今年の春過ぎ、息子が1歳半になり、いわゆるトイレトレーニングに取り組み始めました。
1月に下の子が生まれ、「赤ちゃん返り」をすることはなかった彼ですが、トイレやおまるには極めて消極的でした。
まだ、下の子と同じようにおむつをしていたいのかも、と思いました。
夏には親子で何度もトイレに挑戦しました。
息子は最初は面白がっていて、秋ぐらいには、買っておいた布のパンツを自分ではく、と言い出して履いて過ごしたこともありました。
しかしだんだん、「トイレでしなければいけないのに、できない」と感じているように見えました。
息子なりにジレンマがあったのかもしれません。
そのころには娘も面白がって「ちー」と言いながらおまるに乗るようになり、余計に息子はトイレを避けるようになりました。
今はおむつはずれは昔より遅く、だいたい3歳と言われます。
それでも年配の方から「まだおむつをしているの?」と言われることもあり、私には母親として何か素養が欠けているのではないか、とか仕事やなんやとやりながら子供に傾注する時間が足りないのではないか、と思うこともありました。
自分自身を見つめるうちに「自分が楽をしたいからおむつが外れたらいいなと思っていないか」「どこかで替えるのが面倒だと思っていて、それが子供に伝わっているのではないか」と思い始めました。
息子自身にも、トイレやおまるに対する抵抗感、あるいは恐れがあるように感じられました。
そして彼なりの美学があるのかもしれないと思い始めた昨日、息子が自分でおまるに駆け出し、用を足すことができました。
「できた!できた!」とうれしそうな息子に夫婦で拍手喝采でした。
こうあるべき、という私の心が息子を縛っていたのかもしれないと思います。
待つことの大切さを教えられました。
また「光明道中記」を読み直したいと思います。
長々と読んでいただき、ありがとうございます。